魑魅魍魎、跋扈する森
妖魔の森へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿り気を帯びた冷たい風が、皮膚ではなく、心の奥を撫でるように吹き抜けていく。木々は異様に背が高く、枝葉は空を覆い隠していた。
光は差し込んでいるはずなのに、どこか薄暗く輪郭が曖昧だ。ナオトは無意識に拳を握った。
――おかしい。振り返ると、仲間たちの様子もどこか違っていた。
足取りは重く、視線は定まらず、まるでそれぞれが別の場所を見ているかのようだった。「……ん?」
アミカが足を止めた。
「どうした?」
とナオトが声をかけるより早く、
彼女は周囲を見回し、困惑したように呟いた。「ここ……私の家?」
ありえない、と首を振る。
しかし、その瞬間、アミカの意識は現実から引き剥がされた。――あなたは、いつも賢いのね。
――私の自慢の娘よ。柔らかな声。懐かしい温もり。
だが、次の瞬間、その声は歪み始める。――でもね、あの子、頭がいいからって、ちょっとムカつくわよね。
――何なのよ、あの子。
――嫌な子。称賛と嫉妬、期待と拒絶。
子供の頃、気づかぬふりをしてきた感情の棘が、次々と心に突き刺さる。「……やめて……」
アミカは頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
「いやぁぁっ!!」
「アミカ!」
メグミが駆け寄り、彼女の肩を掴む。
「大丈夫!? 私よ、メグミ!」
アミカは荒い息のまま、ゆっくりと顔を上げた。
「あ……あなたは……平気なの?」
「私は……大丈夫みたい。でも、他のみんな……」
見渡すと、ナオトたちも皆、立ったまま虚ろな表情をしている。
何かを見つめ、何かに囚われている。「これ……精神に直接作用してる……」
アミカは震える声で言った。「この森、心を映して……縛る……」
メグミは一瞬、黙り込んだ。
そして、静かに頷く。「……わかった。私がやる」
「え?」
アミカが目を見開いた瞬間、メグミの手が淡く光り始めた。
白に、わずかに桃色を含んだ、温かな光。「……あなた、手が……」
「本当だ……何これ」
不思議そうに見つめながらも、メグミは躊躇しなかった。
「まあ、いいわ」
彼女はナオトの前に立ち、そっと手をかざす。
「ナオト、起きて」
光が胸元に触れた瞬間、ナオトの身体がびくりと震え、目に焦点が戻った。
「……メグミ?」
同じように、光が広がり、仲間たちが次々と正気を取り戻していく。
メグミが両手を掲げると、光はさらに強まり、彼女の全身を包み込んだ。
それは祈りのようであり、祝福のようでもあった。森に満ちていた重苦しい気配が、音もなく霧散していく。
「……すごい……」
イシュタルが息を呑む。
「この地では、我らの法術すら通じぬというのに……」
セラフィムは驚愕を隠せなかった。
「これが、妖魔の森……」
「でも……どうして、私が……」
戸惑うメグミに、ナオトは静かに言った。
「はっきりしたことは言えない。
でも、俺たち……ブラックホールを通ったとき、何か変わったんだと思う」アミカも頷く。
「キョースケ……あの人も、気づいてるかもしれない……」
その名を口にした瞬間だった。
――ザザ……ザザザ……
木々の間から、異様な羽音が響く。
「……来たか」
現れたのは、インセクター軍団。
そして、その中央に立つ男。「またお前たちか」
キョースケは、楽しげに口角を上げた。
「ここで何をしてる?」とナオト。
「探しものだ。お前たちには関係ない」
キョースケは一瞬、視線を逸らし、背後を振り返る。
「なあ、ゴールデンバウム。何か俺に隠してるか?」
「いいえ」
女王は冷ややかに答えた。
「姫は捕らえた後すぐ脱走しました。今は帝国にはおりません」「この森で迷って……野垂れ死に、でしょうね」
キョースケは肩をすくめ、笑った。
「残念だったな、ナオト」
そして背を向ける。
「じゃあな。忙しいんでね」
「待て!」
ナオトの叫びも虚しく、インセクター軍団は森の奥へ消えていった。
沈黙が戻る。
「あいつ……この森で、平気だった……」
ナオトは呟く。「でも、姫がこの森にいる可能性は高いわね」
メグミが言う。「じゃあ……まずは、お姫様を探しましょう」
アミカは、もう迷っていなかった。
「大賢者様の件は、その後で」
「目的は同じです」
セラフィムが静かに頷く。
こうして一行は、妖魔の森のさらに奥へと進むことを決めた。
魑魅魍魎が跋扈するこの森のどこかに、ひとりの姫が、助けを待っている――。
つづく